私がまだ学生だった頃、good-bye青春という曲を歌っていた頃の長渕剛のファンだった。
ねぎ坊主のようなサーファーカットヘアが良く似合っていた。
憧れたりもして長渕剛になりたいとまで思ったりしたものだ。
しかしその後長渕剛のイメージキャラクターは硬派な強面なものに変化していくにつれてあまり好感を持たなくなった。
最近、子育ても一段落したのか、たまにテレビ等に出演するのを見かけるようになり、ちょっと怖いもの見たさでチャンネルを合わせるようになった。
これは、BS放送でやっていた長渕剛が若者と座談会形式で青春の悩みにアドバイスをする番組のヒトコマだ。
ある少女が、今声優を目指して勉強しているが、どこまで不確実な夢を追いかけ続けていいか不安だと言った時、長渕が中学のバスケ部でのカルピス担当だったエピソードを語った。
バスケ部でいつまでもレギュラーになれず、万年お茶汲みだったエピソードだ。
やかんでカルピスを汲んでまわる担当しかさせてもらえなかったが、カルピス汲みのエキスパートになり、クラブの中での立場を守り抜いたとのことだ。後輩から「長渕先輩、カルピス配りなんて僕たちがしますよ」って言ってきたとき、3年生の同級生部員が、「何言ってんだ!カルピスは長渕の役目なんだ!」と言ったとの事。それがとても嬉しかったそうだ。
客観的に見れば、かなり情けないエピソードだし、後輩が気を使ってやりますと言ってきたらありがとうと譲るのが自然だ。このエピソードのカッコ悪さにかなり驚いたが、それでもこれを語った理由はなんだったのか。
それは、人の中にいなければ自分の姿がわからないこと、悔しい思いをすればするほど自分を磨いていくことができることなどを伝えるための体験談として語られたのだった。
つまり見つけた自分の姿はカルピス担当だったが、バスケレギュラーになれない悔しさでカルピス汲みのクオリティが高くなり、周りから評価されるほどになった、ということ。
これは、最終的には自分が何に向いていて何を実現できるかは今はわからないかも知れないが、悔しい思いをたくさんすればするほど自分を磨く原動力となり、自分の肥やしになるから、目標にたどりつけないかも知れなくても頑張ってみろ、と言っているのだ。
迷うくらいならまずはとことんやり尽くせと、そしてダメなら泣けばいいじゃないか、次がきっと見えるぜ、と。
なるほど、長渕が根性派に支持されているのがうなずけた。
ひょっとすると、カルピス担当として認められたというのは単純にカルピス汲みの質が高かっただけではなく、それにこだわって努力している様が周りの人に伝わっていて、皆が長渕の気持ちを思いやってのことだったのかも知れない。しかしそれでも長渕が勝ち取った立場であることには変わりはない。
長渕が語った内容は、チャレンジをするかどうかを一見合理的に迷っているように見えても実は迷っていては前に進めない、チャレンジしてみて結果を体感することで次のステップが見えてくるのだ、ということなのだ。
また、長渕の歌を聞いて涙を流す子供がいるが、つらい思いをしているが、道から外れたわけじゃない、わかってくれている人がいるんだ、自分は孤独じゃなかったんだと思えるからだろう。冒頭の少女も思い切ってチャレンジしていいのだと悟り、涙を流していた。
なにか悲しい時には周りが悲しんでないので孤独になるが、悲しいのは当然だと知ってくれるひとがいると孤独ではなくなる。よって、悲しいことを受け止め対処しようとする元気が出てくる。
長渕は、決して周りを見渡せるタイプではなさそうだが、自分の世界だけでがむしゃらにがんばって、周りの人に助けられ、気が付くと自分のクオリティが高くなっていて、結果的に人に恩返しができるほどの力がついていた、という人なんだと思った。
また、がむしゃらといってもなんでもかんでも強引という訳ではないだろう。そこは、これだけビッグな存在になれているのだから、何が自分にしっくりくるか、何が得意かなどのマッチング感覚はさすがに持って生まれた才能大きくが作用しているに違いない。
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